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最後の喫煙者 自選ドタバタ傑作集1

最後の喫煙者―自選ドタバタ傑作集〈1〉 (新潮文庫)最後の喫煙者―自選ドタバタ傑作集〈1〉 (新潮文庫)
(2002/10)
筒井 康隆

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もはや説明不要、というより説明したら負けな気がする。そんな筒井翁の短篇集。
地上最後の喫煙者になった「おれ」の話やら、秀吉が備中高松上の水攻め後、新幹線で京都に戻る話(しかもなんの『説明』もなしに)、井伊直弼の首でラグビーする話(大江健三郎著『万延元年のフットボール』のタイトルをパロった『万延元年のラグビー』)などなど。ナンセンスなドタバタ劇といったらやはり筒井翁の独壇場だ。何も考えずに楽しく読んだ。
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破戒

破戒 (岩波文庫)破戒 (岩波文庫)
(2002/10)
島崎 藤村

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島崎藤村といえば、浪漫主義と初期自然主義文学を開拓していった明治の文豪。その昔『若菜集』という詩集を読もうとしたけれど、理解できずに断念した苦い記憶がある。詩を諦めた分小説をばと、読んでみた。

あらすじ(Wikipediaより引用)
明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。

あらすじにも書いてある通り、部落問題(穢多・非人)を扱った社会的な色あいのある作品。読み物としての小説でなく、小説としての「小説」――つまりは、思想・主義主張の正当性を裏付けるための虚構――であった。流石に時代を感じさせる硬い言い回しは正直読みづらい。しかし読み進めているうちに、ふと、「硬さ」が気にならなくなる瞬間があって、それからは楽に読むことが出来た。詩人らしい美しい表現が随所に見られて、生きている日本語というものを感じる。
さて、社会的弱者(危なっかしい言葉だが)を取り扱っているこの作品について、いくつか感じたことを記そうと思う。だが自分は、当時の社会的・歴史的背景を充分理解しているとは到底言えないので、現代の一読者としてありのままに思ったことを述べる。識者が見れば噴飯物であろうけれど、「独白」と銘打った意義はそこにある。

まず第一点は、瀬川丑松はイデオローグとして適切だったかということ。
社会に潜む理不尽を告発した小説は多々ある。『破戒』もそうだ。しかし自分は『破戒』を読み終わったあとに、怒りというものをそれほど感じなかった。理不尽に対する正当な怒りはあってしかるべきものであるのに、どうしても湧かなかった。他人事として、この作品を眺めていたかと問われれば、そうでもない。一文一文、丁寧に読んだ心算だ。さて、その理由を考えたときに、丑松の実存的欲求に対する意思の弱さがあるのじゃないだろうか。彼は本当の意味で、戒めに相克していないのではないかと思ったのだ。
ここに本文を一部引用すると、

>もし父がこの世に生きながらえていたら、まあ気でもちがったかのように自分の思想の変わったことを憤り悲しむであろうか、と想像してみた。たといだれがなんと言おうと、今はその戒めを破り捨てる気でいる。<

とある。「これはどうしてか?」という疑問に対する答えとして、前項からまた引用すると、

>告白――それは同じ新平民の先輩にすら躊躇したことで、まして社会の人に自分の素性をさらけだそうなぞとは、今日まで思いもよらなかった思想なのである。急に丑松は新しい勇気をつかんだ。どうせもう今までの自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――あゝ、多くの青年が寝食を忘れるほどにあこがれている現世の歓楽、それも穢多の身にはなんの用があろう。一新平民――先輩がそれだ――自分もまたそれでたくさんだ。こう考えると同時に、熱い涙は若々しい頬を伝ってとめどもなく流れ落ちる。実にそれは自分で自分を哀れむという心から出た生命の汗であったのである。<

とある。先輩である猪子の死を受けて影響されたとしても、この有様では意味がないのでは。ともすれば、「うっかり口走ろう」としているようにも見受ける。告白して楽になろうという態度は、現実に沿えばもちろん是だ。しかし、社会派の小説としては非だと思う。巨大な理不尽に対して、戦おうとする意思の告白を自分は丑松に期待していた。それこそ現代の感覚だろうか?

第二点は、ラストシーンにおける救済のあり方について。
個人的にはあまり感心する終わり方でなかった。何もかもが上手く立ち回って、丑松の前途が開けている、半ばデウス・エクス・マキナ的な(ここでの機械仕掛けの神は作者自身である)ラストはいかがなものかと。しらけずにはいられなかったというのが正直な感想だし、問題を提起しておいてそれを投げっ放しにするのはちょっと無責任なのではないかとも思った。実際的な問題として、当時の穢多・非人の人達は現実から逃れ得なかったわけで、丑松がテキサスへ旅立つことをもってして締めくくるのは安普請なんじゃないかなあ。

色々と批判的なことを書いた。だが近代文学の黎明期、まだ小説の方法論もろくに確立されていない時期(恐らく)に、こういった小説が出現したことには大きな意味があって、「自由とは平等とはなんぞや」なんてて議論が真面目に取り交わされていた頃の熱量を感じた。

愛 (角川文庫)愛 (角川文庫)
(2008/04/25)
井上 靖

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井上靖の短篇集。収録されているのは『結婚記念日』、『石庭』、『死と恋と波と』の三篇。
井上靖といえば『氷壁』と『あすなろ物語』を思い出す。個人的には後者の方が好き。

簡単に二篇だけ取り上げる。

『結婚記念日』
死んだ妻と結婚記念日に旅行した思い出話。妻は吝嗇で親戚から評判が悪く、彼女が死んだ後、男に後妻を取らせるようと周りはすすめる。だが男は、いつも曖昧な返事をし、死んだ妻に義理立てして独り身でいようとする。
「みんなは悪く言うけれど、俺だけはあいつの良い所を知っている」という感覚がよく分かる。
巧みな構成と作者の技量が光る好短篇だった。

『死と恋と波と』
自殺を前提においた緊張感のある話。
主人公は金持ちの息子だが、一代で財産を食い潰してしまう。放蕩したわけでなく、手を出した事業が悉く失敗するという不運に見舞われたのだ。そんな男が自殺のために訪れた宿で、同じ目的の女に出会う。
男が食事の席で女には仕掛けたことをきっかけに、二人の計画は狂って行く。
女は死ぬに死に切れず、男の世話になり。男の方も決心が揺れ、宿の外にある断崖まで来てみたものの、結局飛び降りれなかった。その様子を木立の影から見ていた女が、男の元に駆け寄っていって、共に生きてみようと促す。
こういうドラマチックな展開は、作者の得意とするところだろう。

短いので読みやすく、清々しい読後感を味わえた。

ディケンズ短篇集

ディケンズ短篇集 (岩波文庫 赤 228-7)ディケンズ短篇集 (岩波文庫 赤 228-7)
(1986/04)
ディケンズ

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全十一篇の短篇集。小池滋・石塚裕子訳。チャールズ・ディケンズと聞けば『クリスマス・カロル』を思い出す。ユーモアと温もりのある名作だ。この短篇集の最初に収録されてある『墓掘り男をさらった鬼の話』はクリスマス・カロルの原型だろう。悪人が何かのきっかけで改心し、救済されるという構造は昔からよく見られる。菊池寛の『恩讐の彼方に』なんかも、その典型的な例だ。菊池寛とディケンズを比べてみてちょっと気付いたことがある。「恩讐」の市九郎は人殺しを重ねた。ディケンズの創り出した主人公達は、ひねくれているものの大した罪を犯したわけではない。それなのにどうも、ディケンズの主人公達の方が「悪者」っぽく感じられた。そのあたり、ディケンズの人物描写に関する比類ない巧さを髣髴とさせる。だが、扱うテーマの違いもあるし、菊池寛氏の人物描写がどうとかいう問題ではない。『恩讐の彼方に』が、日本文学史上における傑作のひとつであることは言うまでもない。

それから気になった幾つかの話について書いていく。

『グロッグヴィッヒの男爵』
結婚前は豪勢な暮らしぶりをしていたシュビーレンハウゼン家の男爵。結婚後は十三人の子供が生まれ、婦人の尻に敷かれ、立場が無くなってしまう憐れな男爵。その男爵らを取り巻いていた時勢が変わり、シュヴィーレンハウゼン家の財は尽き、借金が募っていった。彼は「どうしたらいいのか皆目、見当がつかん」「死ぬしかない」と、あっさり自殺を決意する。最後の一服にと、パイプをくゆらせた矢先、突然幽霊が彼の目の前にあらわれた。幽霊は「絶望と自殺の守り神」だと名乗る。
しかしながらこの物語は陰湿なものでは決してない。幽霊と男爵の掛け合いにはさりげないユーモアがあり、男爵の行動原理にはファルス的な滑稽さがある。悲愴さなど微塵も感じられない。あるのは中年男の悲しげな哀愁だけだ。
それから男爵は幽霊との対話を通じて、前向きな気持ちを自分自身の中から得て、幽霊を払いのける。その後の男爵は決して金持ちにはならなかったが、十三人の子供と妻と、趣味のクマ狩りイノシシ狩りに興じて幸せに暮らした。

「すべての人にぼくがしたい忠告は、たとえ似たり寄ったりの原因でふさぎこんで憂鬱になったって(こういう人間はわんさかいるだろうが)、今一度ものごとの裏と表とを見て、一番いいほうに虫めがねをあてがってみたらいいってことなんだ。そしてそれでもまだ、みだりにこの世から引退したくなるようなら、まず最初に大きなパイプを一服やり、そして酒壜一本まるまる空にして、グロッグツヴィッヒの男爵のあっぱれなお手本から学んでみてはどうかな」

という教訓で最後は締めくくられる。

『ある自虐者の物語』
独白体の小説。「告白体」ではない。非常に高い知性と冷たく美しい容貌を持った、孤独な女性の手記である。
この話を好きになるか嫌いになるかは、人によってきっぱり分かれるんじゃないだろうか。
「私は馬鹿でないという不運に生まれついている」
書き出しからしてこの調子だ。

ウェイドは孤児として、ある婦人に育てられる。彼女を含め、女の子ばかりが十人の大家族であった。孤児であることを十二歳のときに聞かされ、それから彼女は周りの女の子が見下したような優しさを示すことに気付く。孤児は彼女だけであったので、「優越感から、傲慢な憐れみで親切にしてくれている」のだとウェイドは感じる。馬鹿に生まれつかなかったために、他人の考えが見抜けてしまった(らしい)。そういった性質のせいで、成長していく過程、さらに歳を重ねていく人生の過程で、常に誤解を受けてきたと彼女は確信している。同情したような態度の裏にある、軽蔑や偽善を冷ややかな目で彼女は見通す。書記の中の語り口を眺めてみると、彼女は彼女自身が絶対的に正しいと思っているようなきらいがある。
真面目な言葉を使えば「屈折した」、砕けた表現をすれば「痛々しい」人物だ。自分はこういう目も当てられないような、小六病的な女の子が好き過ぎて、息苦しくなる。物語の最後で、自分と似たような境遇・性質の少女に出会い、喜悦し、共鳴し、養ってしまうところなんて最高だ。
十一篇中、他のものとは色合いを異にしたことと、個人的趣味でこの話を抜き出した。

『ジョージ・シルヴァーマンの釈明』
孤独で内気な牧師の、半生を綴った回想文。翻訳文と原文とで若干ニュアンスの違いはあるだろうけれど、文体と雰囲気はかなり洗練されているように思う。
読み終わったときに、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドのような誠実さ、愛への飢えをジョージ・シルヴァーマンの中に見出した。巻末の解説の中で「彼は真実のみを語っているのだろうか」、つまり釈明の中で自分の事を美化しているのではないか、というようなことが書かれている。冷静に読んでみると確かに、話が出来すぎている感はある。だけれど、第八章以降における痛切な叙述、美しい自己犠牲(あるいはそれに類似したもの)の精神を否定したくないという自分が心の中にいる。甘っちょろい若さとも言うべきものだろうか。その甘さを棄ててしまうのは余りにも悲しいことだと実感した。月並みな言葉で言えば、「考えさせられるものがあった」というやつか。
自分の追い求めている短篇像の理想そのものだったように思う。

他にも面白いもの、ちょっと退屈に感じたものがあった。だが、長くなりそうなのでここいらで終わりにする。

仮面の告白

仮面の告白 (新潮文庫)仮面の告白 (新潮文庫)
(2003/06)
三島 由紀夫

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早熟の天才、三島由紀夫の著作。『潮騒』『金閣寺』『鍵のかかる部屋』を読んでから、しばらく疎遠だった三島作品に再びふれてみた。
『仮面の告白』は「私」による一人称告白体で、「私」の幼年期から青年期にいたる過程を描いたもの。「私」というのは勿論三島自身の投影であって、半自叙伝的な小説となっている。そうであるから、フィクション性に富んだ「大事件」なるものは起こらず、もっぱら心理描写に重きが置かれている。
一章は幼年期の話で、その頃から男の汗・血・肉体に対するぼんやりとした固執と美的な死、それから女装への興味などが語られる。
二章は思春期の話で、やはり同性愛の体験がつらつらと語られていく。「私」はこの時点で自分の性的趣味を自覚し始め、苦悩の翳りもだんだんと見えてくる。
三章では、友人の妹である園子との恋愛と裏切りが描かれ、四章で「私」は園子と再会するも、二人は結ばれない。

さて、作中を貫いている重要な要素として同性愛がある。これは祖母によって過保護に育てられた、ひ弱な「私」の自意識が屈強な男性像に対する憧れとして発露したものだろう。それは戦時下という時代背景で、逞しい肉体こそが即ち、男らしさの象徴であるという風潮もあったのではないだろうか。
仮面の告白における「仮面」を考えたとき、無難な解釈として園子との関係があげられる。つまり同性愛を恥ずべきものだとみなし、自分が正常な人間だと周囲に偽るための演技として、園子と恋愛じみた関係をもつこと、それこそが仮面である、と。
「私」は園子に対して、他の女性にはない何かを感じ惹かれたような気分になる。それが本物の愛なのかどうか分からずに内省を続け、感情がくるくると瞬時に裏返ったり、矛盾したりする。そして結局は、園子からの結婚の申し入れを断ってしまう。
それからすぐに園子は別の男と結婚し、「私」と園子は友達として会合を続ける。「私」は園子との短い逢瀬に静かな幸福を感じている。それは人口的な愛を積み重ねる空虚な作業であった。だが「私」はある意味で行為に満足感を得ていた。仮面が「私」自身の顔に、ぴったりと定着しかけていた。
しかしある日の逢瀬の真っ最中、「私」は日向で半裸体になっている若い男の肉体に釘付けとなり、同性愛的象徴に満ちた空想を走らせる。そのぼんやりとした意識が冷め切らないまま園子を振り返ると、今まで築きあげてきた人口的な愛の建造物が一気に壊れていくような感覚に襲われる。「私」は最後まで同性愛という宿命に抗いきれなかった。仮面はどこまでいっても、作り物でしかなかったのだ。

ここまで書いてみて、なんだかトンチンカンなことをやっているような不安がこみ上げてきた。仮面とは、告白とは、突き詰めて考えると「同性愛」というテーマを打ち出しながらも、もっと普遍的な人間のあり方について演繹できるような思想がこの作品の底流をなしているんじゃないかと。「私」の場合はそれがたまたま同性愛だっただけで、我々にもなにがしかの仮面がきっとあるはずだ。それを探るのは、ちと現時点の自分には荷が重いのでここら辺で止しておく。

最後になったが、これを二十四歳の三島由紀夫が書いたことを恐ろしく思う。レトリックぎらぎらで古典フランス文学めいた格調高い文体は「私」の孤独と内面世界を美しく浮き彫りにしている。
まあ、個人的には……あまり好きじゃない。

ハックルベリイ・フィンの冒険

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)
(1959/03)
マーク・トウェイン

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マークトウェイン著、村岡花子訳。氏の前作である『トム・ソーヤーの冒険』と世界観を同じくし、登場人物などの設定も引き継がれている。舞台は奴隷制度の色濃く残る時代、アメリカ西部の田舎町。ハック少年の視点で物語は進行してゆく。前作では三人称視点で、時折作者自身がメタ言及を行いつつ、自伝的な体裁をとっていた。個人的にはそちらの方が児童文学らしくて中々面白いと思ったのだが、件の作ではより小説らしい書き方となっている。

あらすじとしては、浮浪児であるハックルベリイ・フィンが前作の冒険で大金を手にし、村の未亡人に身元を引き取られていたが、いわゆる「お上品」な学校・家庭生活に窮屈さを感じ始めて脱出を試みるというもの。

旅の始めにハックは老いた黒人奴隷ジムを仲間にして、彼の逃亡と解放を目的に「自由州ケイロ」を目指していく。(そこでは南北戦争以前から奴隷制度を廃止していた)
旅の途中で殺人の現場や、名家の宿根、詐欺師のやりくちなど、様々な困難・社会の暗部を目の当たりにしながらハック達は進んでいく。
当時、黒人奴隷といえばモノ――それも非常に高価な――であって、逃亡を手助けするのは他人の財産に対して盗みを働く以上の意味があった。浮浪児であるハックさえもわきまえていたのだから、一般の人たちには相当根強い意識があったに違いない。だから物語の終盤で、ハックは自分の行動に罪の意識を感じ、葛藤する。もともとの所有者にジムの場所を告げてしまうか、それとも止しておこうか、と。
彼はためしに所有者宛ての手紙をしたためてみると、今までの罪が全て洗い清められたような楽な気持ちになった。そこで折れてしまいそうになったが、彼の心に浮かんできたのは、老黒人奴隷ジムの思いやりに満ちた行動の数々、そして「あんたはジムじいやがこの世で持った一番いい友達だ、今ではたった一人の友達だ」というジムの言葉だった。ハックはちょっとの間考えてから、「よし、それじゃあ僕は地獄へ行こう」と言ってついに手紙を引き裂いてしまう。ジムとの友情が、保身に走ろうとする彼の弱さに打ち克った瞬間だ。

それからトムとハックの偶然の再会と、トムの起こす一悶着の後、諸々の伏線が鮮やかな手際で回収されて物語は終焉を迎える。結局のところ彼らは「自由州」に辿り着かなかったが、それでも黒人は無事に自由の身分となる。さすがに児童向けということはあって、ハッピーなエンドで締めくくられるわけであった。
あえてケチをつけるならば、トムが即物的であることを匂わせるような伏線の一部分。面白いことのためなら名誉や家柄など目に入らないような少年であって欲しいと密かに望むわけだが、いかがなものか。

現代アメリカ文学の源泉と言われるだけあって、件の作は傑作と呼ぶにふさわしい質と、読者の心を打つ何かがひそんでいるように思う。
プロフィール

F型

Author:F型
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