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ディケンズ短篇集

ディケンズ短篇集 (岩波文庫 赤 228-7)ディケンズ短篇集 (岩波文庫 赤 228-7)
(1986/04)
ディケンズ

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全十一篇の短篇集。小池滋・石塚裕子訳。チャールズ・ディケンズと聞けば『クリスマス・カロル』を思い出す。ユーモアと温もりのある名作だ。この短篇集の最初に収録されてある『墓掘り男をさらった鬼の話』はクリスマス・カロルの原型だろう。悪人が何かのきっかけで改心し、救済されるという構造は昔からよく見られる。菊池寛の『恩讐の彼方に』なんかも、その典型的な例だ。菊池寛とディケンズを比べてみてちょっと気付いたことがある。「恩讐」の市九郎は人殺しを重ねた。ディケンズの創り出した主人公達は、ひねくれているものの大した罪を犯したわけではない。それなのにどうも、ディケンズの主人公達の方が「悪者」っぽく感じられた。そのあたり、ディケンズの人物描写に関する比類ない巧さを髣髴とさせる。だが、扱うテーマの違いもあるし、菊池寛氏の人物描写がどうとかいう問題ではない。『恩讐の彼方に』が、日本文学史上における傑作のひとつであることは言うまでもない。

それから気になった幾つかの話について書いていく。

『グロッグヴィッヒの男爵』
結婚前は豪勢な暮らしぶりをしていたシュビーレンハウゼン家の男爵。結婚後は十三人の子供が生まれ、婦人の尻に敷かれ、立場が無くなってしまう憐れな男爵。その男爵らを取り巻いていた時勢が変わり、シュヴィーレンハウゼン家の財は尽き、借金が募っていった。彼は「どうしたらいいのか皆目、見当がつかん」「死ぬしかない」と、あっさり自殺を決意する。最後の一服にと、パイプをくゆらせた矢先、突然幽霊が彼の目の前にあらわれた。幽霊は「絶望と自殺の守り神」だと名乗る。
しかしながらこの物語は陰湿なものでは決してない。幽霊と男爵の掛け合いにはさりげないユーモアがあり、男爵の行動原理にはファルス的な滑稽さがある。悲愴さなど微塵も感じられない。あるのは中年男の悲しげな哀愁だけだ。
それから男爵は幽霊との対話を通じて、前向きな気持ちを自分自身の中から得て、幽霊を払いのける。その後の男爵は決して金持ちにはならなかったが、十三人の子供と妻と、趣味のクマ狩りイノシシ狩りに興じて幸せに暮らした。

「すべての人にぼくがしたい忠告は、たとえ似たり寄ったりの原因でふさぎこんで憂鬱になったって(こういう人間はわんさかいるだろうが)、今一度ものごとの裏と表とを見て、一番いいほうに虫めがねをあてがってみたらいいってことなんだ。そしてそれでもまだ、みだりにこの世から引退したくなるようなら、まず最初に大きなパイプを一服やり、そして酒壜一本まるまる空にして、グロッグツヴィッヒの男爵のあっぱれなお手本から学んでみてはどうかな」

という教訓で最後は締めくくられる。

『ある自虐者の物語』
独白体の小説。「告白体」ではない。非常に高い知性と冷たく美しい容貌を持った、孤独な女性の手記である。
この話を好きになるか嫌いになるかは、人によってきっぱり分かれるんじゃないだろうか。
「私は馬鹿でないという不運に生まれついている」
書き出しからしてこの調子だ。

ウェイドは孤児として、ある婦人に育てられる。彼女を含め、女の子ばかりが十人の大家族であった。孤児であることを十二歳のときに聞かされ、それから彼女は周りの女の子が見下したような優しさを示すことに気付く。孤児は彼女だけであったので、「優越感から、傲慢な憐れみで親切にしてくれている」のだとウェイドは感じる。馬鹿に生まれつかなかったために、他人の考えが見抜けてしまった(らしい)。そういった性質のせいで、成長していく過程、さらに歳を重ねていく人生の過程で、常に誤解を受けてきたと彼女は確信している。同情したような態度の裏にある、軽蔑や偽善を冷ややかな目で彼女は見通す。書記の中の語り口を眺めてみると、彼女は彼女自身が絶対的に正しいと思っているようなきらいがある。
真面目な言葉を使えば「屈折した」、砕けた表現をすれば「痛々しい」人物だ。自分はこういう目も当てられないような、小六病的な女の子が好き過ぎて、息苦しくなる。物語の最後で、自分と似たような境遇・性質の少女に出会い、喜悦し、共鳴し、養ってしまうところなんて最高だ。
十一篇中、他のものとは色合いを異にしたことと、個人的趣味でこの話を抜き出した。

『ジョージ・シルヴァーマンの釈明』
孤独で内気な牧師の、半生を綴った回想文。翻訳文と原文とで若干ニュアンスの違いはあるだろうけれど、文体と雰囲気はかなり洗練されているように思う。
読み終わったときに、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドのような誠実さ、愛への飢えをジョージ・シルヴァーマンの中に見出した。巻末の解説の中で「彼は真実のみを語っているのだろうか」、つまり釈明の中で自分の事を美化しているのではないか、というようなことが書かれている。冷静に読んでみると確かに、話が出来すぎている感はある。だけれど、第八章以降における痛切な叙述、美しい自己犠牲(あるいはそれに類似したもの)の精神を否定したくないという自分が心の中にいる。甘っちょろい若さとも言うべきものだろうか。その甘さを棄ててしまうのは余りにも悲しいことだと実感した。月並みな言葉で言えば、「考えさせられるものがあった」というやつか。
自分の追い求めている短篇像の理想そのものだったように思う。

他にも面白いもの、ちょっと退屈に感じたものがあった。だが、長くなりそうなのでここいらで終わりにする。
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